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2023年四川阆中古城导游词600(十八篇)

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2023年四川阆中古城导游词600(十八篇)
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四川阆中古城导游词600篇一

阆中古城在周朝时期是巴国别都,于公元前320_年置县,汉时为巴郡,隋朝时期改称为阆内县,宋代以后才称为阆中,历代多为州、郡、府治所,至今已有2300多年的建城历史了。历史给予了阆中丰厚的馈赠,很多文人墨客为阆中留下了众多赞美的诗篇。诗圣“杜甫”为阆中留下了“阆中胜事可肠断,阆州城南天下稀”的千古名句。除此之外,阆中还被誉为中国最大的“风水古城”。为什么这么说呢?是因为古城完全是按照中国传统的风水理论修建的一座城市,四面环山,水绕三方。在这里山、水、城融为一体。朋友们,一路说说看看,不知不觉我们就来到闻名遐迩的张飞庙了。张飞庙也就是汉桓侯祠。桓侯祠主体建筑均沿中轴线布局,由南向北。主要由山门、敌万楼、木牌坊、大殿、后殿、墓亭及张飞墓和墓后园林组成。走过山门。穿过敌万楼。现在来到的是张飞庙大殿,大家请看,中间正壁那尊竖眉瞠目,不怒而威的塑像便是张飞了,张飞,字翼德,东汉末年跟随刘备起兵。刘备称帝后,被封为巴西太守,镇守阆中长达七年之久。这尊塑像2米多高。头戴王冠,身着锦袍,手捧玉笏。大多数人都疑问说张飞不是武将吗?为什么会塑他的冠冕文身坐像呢?。原来啊!是因为:在清嘉庆年间,张飞被追封为"桓侯大帝",所以这里塑了他冠冕文身的塑像。这旁边的是张飞生前使用过的兵器——铁鞭和铁矛。这个铁鞭有一米余长,共有29节,重约20公斤,由此可见要想将这个铁鞭挥舞自如,得需要多大力气。从这里我们就能想象得到张飞是多么力大无比了。这个铁矛上端的刀刃曲折如蛇,这就是传说中张飞在战场上使用的“丈八蛇矛了”!。大殿后实为墓亭,墓亭古雅简朴,肃然卓立。亭柱一副对联:

随先主逐鹿中原,北征南战,地只西川称帝业;

剩残躯付诸荒冢,春去冬来,人犹千古吊忠魂。

上联写张飞追随刘备一生征战,但实现统一全国的壮志未酬,英魂仍存遗憾。下联说他死后,此墓虽只埋了无头之躯,但人们纪念其忠勇的情怀千古不衰。关于无头之躯,这里还有一个民间传说,据说张飞被杀后,凶手范、张二人割下头颅,想拿到东吴献给孙权,他们乘船时听说:孙权正向刘备求和,二人惊惶无措就把张飞的头抛入江中,浮到云阳地界被一位渔翁捞起,葬在云阳凤凰山麓。这就是为什么张飞"头葬云阳,身葬阆中"的悲壮故事了。

大家请看,张飞墓,高约6米,方圆100多平方米,全用黄土垒成,宛如一个椭圆形的小山峦,岁月沧桑,墓穴仍安然无恙。墓上古木森森,碧草丛生,似乎印证出千百年来无数后人对这位勇猛刚强、嫉恶如仇的"张三爷"的敬爱。墓亭下的拱穴内,端坐着张飞的武身像。墓像前 ,盘龙石斗窝 叫"长明灯"。千百年来,后人为张飞墓添油点灯,这盏长明灯灯火不灭。

好了,朋友们,关于张飞庙我们就聊到这儿了,下一站,我们一起去品——贡院吧!

四川阆中古城导游词600篇二

清朝顺治八年(1651年),因“全川未靖”,四川巡抚李国英驻节阆中,四川监察御史也驻节阆中。当时大员们处理公事的所在地即“道台衙门”,位于今阆中市学道街。顺治十八年(1661年),四川临时省会衙门迁至成都。

从1956年开始,道台衙门被逐渐拆除,阆中税务局、房管处、农机局等单位在道台衙门故地建起职工宿舍。幸运的是,道台衙门的二门现在还保留着,成为昔日威严的临时省会办公大楼的最后见证者,二门上方不知“高寿”的老门枋仍高高在上。阆中决定在旧址上修复道台衙门。道台衙门占地24亩,投资20_万元。20_年10月设计方案定稿,年底动工。道台衙门古城压秤的珍品景观

专家指出:在中国现有的官衙遗存中,仅有县衙,而没有道台衙门。如果阆中的道台衙门一经修复,便在全国具有唯一性。

道台衙门 古城压秤的珍品景观

“道台衙门是彰显阆中历史地位的重要建筑群,急需尽快恢复!”早在4年前,省内外的一些重量级古建筑专家便发出了这样的呼声。在此基础上,连续两届阆中市委、市政府都将恢复道台衙门作为重点项目纳入了重要议事日程,并着手将原道台衙门旧址上的10000多平方米不协调建筑全部拆除。

道台衙门,古城一个失落的惊叹号

阆中名城研究会副主任李文明告诉笔者:道台衙门是明、清两代界于省、府之间设置的一级重要行政机构,其长官称“道员”或“道台”。当时,四川全省共设置了川北、川南、川东、川西4处道台衙门,它们成为链接省政府与各州、县的桥梁,主要职责是负责考核辖区的吏治,审理大案,督导农桑,整肃税源。从明洪武四年(1371)到崇祯十七年(1644),又从清顺治八年(1651)至民国三年(1914),川北道台衙门设在阆中长达536年,明代辖保宁、顺庆、龙安、潼川三府一州共27县,清代辖25州县。明末清初,因成都战乱,四川省会也设在川北道台衙门内,在阆中行使省政府权利长达20_年,并在阆中设贡院,连续4届举行乡试。明代状元杨瞻和清代名宦黎学锦等人,皆分别在阆中作过“道台”。民国元年,改川北道台衙门为川北宣慰署使,张澜先生为首任川北宣慰使。国家一些古建筑专家论证说,如今,在全国遗存官署类文物遗迹中,只有县衙,没有道衙。阆中道台衙门一经恢复后,在全国是唯一的一处。

由此可见,道台衙门标志着阆中在当时的川北具有无法取代的政治、军事、经济、文化各方面的重要历史地位。杨林由等曾见证过阆中道台衙门昔日辉煌的阆中老人介绍说:古城道台衙门的古建筑,大部分毁于上个世纪五六十年代。不少有识之士说:阆中古城能够彰显个性和魅力的地方不多,除了“国宝”张飞庙、待完善的贡院和一批民居院落外,再无压秤的精品景观了,仅凭现有的这些家当是很难满足多数游客的胃口的。道台衙门的历史价值很高,修复后在全国叫得响,属于珍品极品,是不可多得的古城文化生态资源。省委书记张学忠到阆考察,参观道台衙门遗址时,对陪同的阆中市委领导说:“原先这里住的就是我这个级别的官呵!”

修旧如旧,还一座历史文化殿堂

去年以来,阆中名城研究会曾邀请省内外的专家们举行过多次座谈会,认为主色调要凸出明代建筑基调。在规模上,尤其要再现川北道台衙门的宏大气派、古朴自然;内部的局部结构由行政、兵备、粮秣、司法功能部门以及“思政堂”、“柏台亭”、“思豫仓”、“道台井”、“惜阴轩”、“补过亭”、“补拙轩”等既有文化含金量又有可视性的景观构成。

在采访中,笔者还惊喜地发现,早在上世纪五六十年代,阆中的乡土画家马先达、陈文大等人曾将道台衙门的整个轮廓布局及细微结构画了下来,为如今的恢复提供了难得的依据。

老人们说,道台衙门内的每一处景观都有意味隽永的故事。诸如“思豫仓”,便由咸丰元年的川北道台胡兴仁修建,每年他自捐俸银买谷二百担,贮于仓内以备荒年赈灾之用,堪称一段佳话。

阆中一些文化人士还纷纷建言:恢复道台衙门不单只是一幢古建筑外壳的再现。事实上名研会两年前就呼吁社会贤达和搞收藏的研究人员有所准备。他们谢绝外地客商高价收购阆中明代官用器物,如四川罕见的楠木几案(为省级官衙用)、楠木二出头官帽椅、书有“举案齐眉”的呈装诉讼公文盒和大量属于明代的窗花、屏风、雕饰诸珍品,还有不可多得的如“风度端凝”、“明经炬典”等巨型匾额,专为提供道台衙门修复后配套使用。

四川阆中古城导游词600篇三

langzhangは歴史の古い都市で、美里の嘉陵江の北の方に位置しています。二千年以上の歴史を持っています。全体の古い都市は中天楼を中心に、東、南、西、北の四つの方向に延びています。中には多くの小さな町や路地を通り抜けて、独特な方形の古城を形成しています。

古城の町並みはでこぼこした大きな石ころで舗装されていて、街道の両側は古めかしい古い家です。庭があり、商店があります。庭の中の人々はのんびりしていて、将棋をしたり、木陰で涼んだり、ベンチに座ったりして、のんびりとお茶を飲みながら話したりして、古城の独特な趣を味わっています。小さな店には、さまざまな特色のあるスナックや商品が並べられています。店の主人は外で一生懸命に声をかけて、目を引く広告を出しています。外のテーブルに並べられた新鮮な牛肉の香りは、店を通る人をゆっくりさせ、よだれを垂らす特殊な魔力を持っているようです。現地の豊富な産の保寧酢の香りが空気の中に漂っていて、古城全体を「酸」の香りに浸漬させています。

状元坊に入ると、古城東街に入りました。角を曲がって、東の街の小さな路地にもぐると、人だかりの文化広場に来ます。広場は賑やかで、人々は歌を歌い、踊りをしています。みんな笑顔でいっぱいです。いくつかのおじいさんが台の上で珍しい旧式の楽器を弾いています。両側の人が集まって、見たこともない楽器を興味深く見ています。「ばあん」と向かいのおばあさんがまた観光客の目を引いていきました。彼女は小さい棒でものをたたいています。それはいい音を出します。これらの楽器についてはよく分かりませんが、古城の長い歴史文化を担っています。

広場の向こう側は、貢院です。お供えの庭は、棚とも言われています。とても大きくて、厳しいです。貢院の中はどうなりますか?昔はどんな試験でしたか?問題の泡が頭に浮かんで、試験風景が浮かんできた。

古鎮北街に逃げ込むと、文廟に来ました。文壇は四合院を呈しており,たいへん気迫がある。文廟の門に入ると、美しい白いアーチ橋が池に横たわっています。白いアーチ橋を渡ると、「連星門」と呼ばれ、孔廟とも呼ばれます。朱塗りの門を入ると、昔の学堂があります。両侧は古人の修学のホールで、ホールの中で授业のテーブルと椅子を并べて、テーブルの上で文房の4宝--纸、墨、笔、硯を置いています。学堂の真ん中には聖人孔子の像が供えられています。庭の真ん中に立って、目を閉じて、耳の周りに「三経四書」という朗々とした本の音が聞こえてきます。

孔廟を出て、路地をまっすぐ行くと、西街に出ました。遠くに,気迫のある廟が見えた。もう少し近くでよく見えます。元は「漢恒侯祠」です。「漢桓侯祠」は張飛廟とも呼ばれ、その配置は厳格で、構造は独特で、雄大で壮観で、優雅で美しいです。門前には勇猛な獅子がうずくまっていて、千年の張飛の威厳を示しています。「パンパン」「パンパン」と、耳をつんざくような音が背後から響いた。人々は好奇心に目を背け、驚きに満ちていた。振り返ってみたら、思わずぽかんとしました。その勢いは本当に大きく、前後に威厳のある武士の護衛がいて、黒人が張飛して槍を持って、戦車の上に腰を下ろして、威風堂々としています。気勢のみなぎっているどらや太鼓の音の中で,馬隊は整然とした足並みを踏みながら,だんだん遠ざかっていった。人々は名残惜しそうにカメラを受け取って、次から次へと散って、それぞれ新しい楽しみを探しに行きました。

また引き返すと、中天古楼に着きます。これはlanglangの中の古い都市のシンボル的な建物です。それは雲の上にそびえていて、仰向けになったらその屋上が見えます。中天楼は三階で、一階に積み重ねられています。三階の宝塔のように、古城の中央に立って、四方の仰ぎ見を受けています。

夜のとばりが下り、高い灯籠を掲げた南の街を下に下りて川のほとりに来ました。ゆっくりとした川の風が私たちの顔を吹いています。肌寒いです。子供が橋の上で追いかけて騒いでいます。大人は橋の上で「星空」を見ています。「おや、星!」と誰かが叫んでいました。みんなは遊びをやめて、空を眺めました。一つの点々と昇る孔明灯は、星のように、古城の上空に漂っています。langlangの中の古い都市の長い歴史と人々の美しい夢を載せて夜空に上がります。だんだん、だんだん遠くまで飛んでいきます。

歴史は悠久で、古文化の濃厚なlangzhong古城、私はあなたを愛します!

四川阆中古城导游词600篇四

langzhangは今回の旅行の目的地です。人波のピークを避けるために、意図的にこの時間帯を選んだ。今日は早く南充からlang中に駆けつけて古城の姿を見ます。

今回はlanglangに来てから、全国で一番有名な四大古城は三つになりました。私は中央テレビの広告から、langzhouの古い都市に第一印象を与えました。今度langlangに来てから、このいくつかの古い都市の中で一番大きいと思いますが、特徴ははっきりしません。langlangは麗江古城のバーの通りのあのような気違いと喧噪がなくて、水がなくて街頭のあのような霊気を潤します。平遥県のような古風で質朴で古い城壁、城門、城楼の完備と建築の地方の特徴と歴史の落ちぶれた桑感がもっとないです。古代の特徴は明らかではないです。正確に言えば、このlanglangは古い都市と言えます。

langzhong都市の中で最も地方の特色があるものと、牛肉、酢があります。牛肉の前に全部冠があります。「張飛」という二文字があります。歴史上、三国時代の張桓候張飛はかつてlanglangの中で防衛したことがあります。この蜀の猛将は、どんぶりが好きで、langの中のお酒を飲んでいます。大きな塊はlangの中の牛肉を食べています。langzhangの贤い商人は有名人を借りて効果を生みにきて、ひっくり返して探して、张飞よりもっと有名な人がいませんでした。だから、张飞を使ってこの牛肉を名前をつけて、牛肉をもっとよく売らせます。langzhangの酢は2つあります。langzhang酢と呼ばれています。その他にも酢の一種があります。主に足を洗うために使われています。殺菌消毒の効果があります。城中では酢で足を洗う店がたくさん開かれています。街を歩くといつもあなたの足を洗うと叫ぶ人がいます。langzhang都市の商店はほとんど全部四川語を話す地元の人です。雲南麗江、山西平遥県で商売をする人の多くは江、浙江、閩、贛、広東、鄂などの南方の商人です。地元の住民は店先の家賃を彼らにあげます。このようにして以来、経営の理念の上で大きな違いがあります。ミネラルウォーターのように、同じブランドは重慶で5元で、langlangで2元で売っています。食事は注文して、数量は十分です。注文が多いと従業員が教えてくれます。もう食べきれないです。langlang商人は商売をして「道」を重んじます。

langは人がとても厚いです。午後、娘と妻が四川省のところてん店に入りました。それぞれ一杯の「傷心涼粉」を注文しました。この店は中年の夫婦が開いています。食事後、娘がこの店の主人に聞きました。この近くに薬局がありますか?絆創膏を二枚買いたいです。買ってはいけません。二枚あげればいいです。これは私達にとても感動させられました。彼女とは面識がなくて、お店に入って食事をするお客さんだけです。彼女も私達がリピーターになることができないことを知っています。彼女はお金を二枚プレゼントしないでください。昼ごろに都市の中で紅四方軍政治部を見学した時、無料の赤いツアーだと思いましたが、まっすぐに大院に入りました。有料です。百円札しかないです。お釣りがないです。入り口の改札員は「もういいです。お金はいらないです。個人で運転します。大丈夫です。」と言いました。

langさんはとても親切です。嘉陵江でヨットに乗る時、ヨットを運転する若者は真剣に責任を持って、私達にライフジャケットを着て、携帯電話を装って、彼の熟練した運転艇の技術によって、川面で多くのスリリングな動作をしました。妻は彼に言いました。「この澄みきった嘉陵江はlangzhouの中に霊気をもたらしました。霊気があれば人気がありますよ。」彼は答えました。「陝西の人々が私たちに清水をくれたことに感謝します。私たちは嘉陵江の源です。多くの陝西人がlangの中に旅行に来てくれたことに感謝します。」彼は私たちにとても友好的に笑いました。ヨットを運転して水面を2つの湾を多く回りました。

夜、私たちは城中の民宿の二階の小さな木造ビルの軒下に座って、持参の漢中の仙人の少しのお茶を飲んでいます。城中で買ったlangzhang瓜子をたたいて、それぞれ携帯電話の写真を鑑賞して、wechatを送っています。川のほとりにある孔明灯を見て、古城の夜の静かさを感じています。

四川阆中古城导游词600篇五

各位游客朋友大家好,非常欢迎各位来到中国历史文化名城——古城阆中旅游,我是大家的导游,希望大家能随我一起畅游古城,度过愉快的一天。

阆中位于嘉陵江中游,四川西北部,全市幅员面积1878平方公里,全市人口90万左右,1986年由国务院批准为全国历史文化名城。阆中是整个四川迄今为止保留最为完整,规模最大的古城,和云南丽江、山西平遥、安徽歙县并称为我们中国的四大古城。阆中素有“阆苑仙境”、“嘉陵第一江山”的美誉,唐代诗人杜甫就在这里留下了“阆苑城南天下稀”的千古名句。

好了,说到这里,我们第一个要参观的景点张飞庙,马上就要到了。

张飞庙

我们所在的就是国家级重点文物保护单位——汉桓侯祠,俗称张飞庙,迄今已有1700多年的历史了。现在的桓侯祠是明清时重建的四合庭院式古建筑群,占地5000多平方米,规模恢弘、建造精美。

张飞庙墓亭

这里是张飞的墓亭,大家可以看到这边墓亭亭柱上有一幅对联。上联是“随先主逐鹿中原,北征南战,地只西川称帝业”,意思是说张飞追随刘备一生征战,但实现统一全国的壮志未酬,英魂仍存有遗憾。下联是“剩残躯付诸荒冢,春去冬来,人犹千古吊忠魂”,意思是说张飞死后,此墓虽然只埋了无头之躯,但人们纪念其英勇的情怀千古不衰。

这墓亭下放的拱穴内,端坐的是张飞的武身像,大家仔细看一下这豹头环眼、燕颌虎须的猛张飞是不是和大家心目中的张飞有几分相似呢?这像前摆的盘龙石斗窝叫“长明灯”,据说,张飞在驻守阆中的时候,曹魏大将张合带领五万大军进攻巴西首府阆中,当时张飞手足不过万人,却依靠阆中人民的支持,以少胜多,大败张合,取得了保境安民的胜利。阆中人为感戴他的英勇,在其死后,特意选取最好的石头精工雕成这座“长明灯”。千百年来,每到清明时节,人们都要为张飞扫墓,给长明灯献油。

张飞庙大殿

走进大门,首先映入眼帘的就是翘脚联运、气势不凡的敌万楼,“敌万”故名思议,就是说张飞有力敌万夫之勇的意思,楼的两边分别是文物展览厅和群塑厅,穿过这两个展厅,我们来到的就是张飞庙的大殿了。

大家可以首先从外观上观赏一下整个大殿的建筑风格,大殿为歇山式屋顶,砖雕拼合屋脊,屋檐下有题为“刚强直理”的金匾,这是清代果亲王亲自撰写的。走进大殿,中间端坐的那座两米多高、状貌威武的塑像,便是张飞了。也许大家觉得奇怪了,为什么这尊张飞塑像,是头戴王冠、身披锦袍呢?原来在清朝嘉庆年间,张飞被追封为“桓侯大帝”,殿上塑的便是他冠冕纹身的坐像了。左右两壁式岳飞草书的诸葛亮的前后出师表,更是将大殿烘托得一片威严、儒雅。

四川阆中古城导游词600篇六

各位游客,大家好,欢迎大家游览阆中古城。阆中古城位于阆中市城区南侧,是四川省唯一完整保存下来的古城。在游览过程中请大家注意安全,紧跟团队,以免走失。今天,我们将依次参观张飞庙、锦屏山和极富特色的古城保护区。两小时后,我们在古城保护区大门前集合等车。

阆中县始建于,公元前316年秦惠文王时期,阆中古城和同为第二批国家历史文化名城的山西平遥、云南丽江、安徽歙县并称为“保存最为完好的四大古城”。阆中古城 山围四面,水绕三方,天造地设,风景优美 素有“阆苑仙境”、“巴国蜀国要冲”之誉,唐代诗人杜甫在这里留下了“阆州城南天下稀”的千古名句。

阆中之古,首先是古城历史悠久。仅以建县的历史计算,至今已有2300多年的历史。

第二是对中国的历史文化发展具有影响的名人辈出,古迹犹存。同时阆中又是革命老区。第三是古城保存比较完整,文物价值很高。好,各位游客朋友,说到这里,张飞庙就到了。

我们现在看到的就是闻名遐迩的汉桓侯祠,亦称张飞庙。张飞,字翼德,东汉末年跟随刘备起兵。刘备称帝后,张飞镇守阆中前后七年之久。公元221年,张飞被部将范强、张达杀害,葬于阆中,被追封为桓侯。阆中人民追慕张飞英勇忠诚,于墓前建阙立庙。现存的张飞庙是一组唐代风格的明、清建筑—四合院,由山门、敌万楼、牌坊、大殿、厢房等组成,占地5000多平方米,规模宏大,建造精美。

走过山门。穿过敌万楼。现在来到张飞庙大殿,大家请看,中间端坐一尊竖眉瞠目,状貌威猛的张飞,却怎么是头戴王冠,身着锦袍,手捧玉笏的塑像呢?原来在嘉庆年间,张飞被追封为"桓侯大帝",殿上塑的是他的冠冕文身坐像。塑像两边是长子张苞—执蛇矛、功曹马齐—捧丹书。左右两壁是岳飞草书的诸葛亮"前后出师表",将大殿烘托出一派威严而儒雅的气氛。

大殿后实为墓亭,古雅简朴,肃然卓立。亭柱一副对联: 随先主逐鹿中原,北征南战,地只西川称帝业; 剩残躯付诸荒冢,春去冬来,人犹千古吊忠魂。

上联写张飞追随刘备一生征战,但实现统一全国的壮志未酬,英魂仍存遗憾。下联说他死后,此墓虽只埋了无头之躯,但人们纪念其忠勇的情怀千古不衰。

无头之躯有一个民间传说,据说张飞被杀后,凶手范、张二人割下头颅,想拿到东吴献给孙权,他们乘船时听说:孙权正向刘备求和,二人惊惶无措就把张飞的头抛入江中,浮到云阳地界被一位渔翁捞起,葬在云阳凤凰山麓。这就是张飞"头葬云阳,身葬阆中"的悲壮故事。

大家请看,张飞墓,高约6米,方圆100多平方米,全用黄土垒成,宛如一个椭圆形的小山峦,岁月沧桑,墓穴仍安然无恙。墓上古木森森,碧草丛生,似乎印证出千百年来无数后人对这位勇猛刚强、嫉恶如仇的"张三爷"的敬爱。

墓亭下 拱穴内,端坐着张飞的武身像。像前 盘龙石斗窝叫"长明灯"。据说,张飞驻守阆中时,在瓦口隘,大败张合,取得胜利,阆中人感激他。在他死后,特意选取最好的石头雕成"长明灯"。千百年来,每到清明节,人们都要为张飞扫墓,给长明灯献油,纪念这位为阆中做出伟大贡献的“桓侯大帝”。

好了,游客朋友们,张飞庙我们就说到这儿了,请大家跟随我的脚步前往下一个景点——锦屏山吧!

我的景点讲解完毕,谢谢评委老师!

四川阆中古城导游词600篇七

大家都知道,中国的三山五岳之中有许多着名的寺庙,如河南洛阳的白马寺,嵩山的少林寺,西藏拉萨的大昭寺,而在阆中也有一座名不见经传的寺庙——巴巴寺,很多人,听到这个名字,只是觉得它的名字很有趣而已,可它在信奉伊斯兰教的穆斯林心中有着非常神圣的地位。这是因为那里埋葬了一位德高望众的圣人——伊斯兰教噶德忍耶教派第一位来我国传教的祖师华哲·阿卜董拉希,又称为西来上人,他长眠于此已有300多年了。

“巴巴”二字是外来语,阿拉伯语有“祖先、祖师”的意思,是对圣人的尊称。各位眼前的这座巴巴寺,他既是墓地,又是一座宗教圣地,是世界三大宗教之一的伊斯兰教的朝圣之处,素有”东方麦加”之称。关于巴巴寺的来历,有这样一个故事,康熙23年,穆罕默德第29代裔孙,就是这位华哲先生,来到阆中传教,据说他是言语诙谐、善于骑射、尤其擅长诗歌。一天,他同当时的川北总兵马子云同游蟠龙山,看到蟠龙山地势甚佳,便卜其阴宅于水池之中,康熙28年,他去世之后,其弟子便在他生前所卜之处建造了墓亭,将其安葬于内,并命名为“久照亭”,俗称巴巴寺。

现在,大家就可以看到山门处的这块写有“久照亭”木匾了,从字面上理解,意思就是说巴巴寺明月常照,清风长吹,而在清真教义中就是永久长存的意思。进入山门,大家可以看到左侧这块是乾隆年间的水磨青砖大照壁,它长十米,高八米,正面雕刻的是明代唐寅,也就是大家熟知的唐伯虎的阆山阆水图,背面是唐代张藻的迎送图,大家可以看到,照壁上的刀工精美、技艺精湛,图案很富有艺术感和立体感。

照壁后就是大殿了,大殿为寺内的主体建筑,分为内外二室,外室锦帘垂掩,匾额高悬,水磨地面铺设丝毯跪垫,供人朝拜。内室是华哲先生的墓室,顶若苍穹,高悬金匾两通,大家可以看到其中一块题写有“清修”二字的匾额,这是由清朝多罗贝勒亲王亲手书写的,上面还装饰有龙吻金印,是一件不可多得的艺术珍品。

贡院制度馆

现在我们进入的这一处展馆,就是贡院的科举制度馆。大家都知道,科举制度是我国历史上一种很重要的选官制度,那在科举制度之前,我国历史上究竟还有哪些选官制度呢?大家不妨看看我们眼前的这张示意图,就可以清楚的看到,分别有原始社会的禅让制、西周的世袭制、汉朝的察举制、魏晋南北朝的九品中正制,然后就是延续1300多年的科举制度。

贡院程序馆

我们现在所在的景点就是古城中的一处省级文物保护单位——清代四川贡院,贡院俗称考棚,是科举时代考生们应试的考场。在明清时期,用作县考、府考的地方称之为试院,用作乡试、会试的地方才称之为贡院。清代四川贡院是我国目前保存最为完好的科举考试场所,是见证科举取士的实物宝库,根式我国现有贡院中规模最大、内涵最丰富、特色最突出的科举文化胜地了。

现在我们进入的这一处展馆呢,是贡院的科举程序馆,这里所反映的就是参加科举考试时的具体程序。在这里,有一张明清时的考试程序图,从这张图上可以看出究竟要经过哪些程序,才可以突破重围进入贡院参加考试。感兴趣的朋友可以自己参观看一下,在这里我就不为大家一一讲解了。

贡院防作弊馆

我们现在所在的是贡院的防作弊馆。俗话说“上有政策,下有对策”,似乎自有考试以来,这个作弊就相伴而生,再加上科举考试名利效应的逐渐升级,很多人甚至不惜冒着性命危险,也要通过作弊来实现金榜题名的美梦。作弊方式可谓是五花八门,作弊手段较现在也是有过之而无不及啊,我们下面就来看几种比较有趣的作弊方式。

四川阆中古城导游词600篇八

各位游客朋友大家好,欢迎大家来到中国历史文化名城---阆中古城。阆中位于嘉陵江中游,四川西北部。是四川省唯一完整保存下来的古城。所以请大家在游览过程中紧跟团队,注意安全,保护景区环境,不要乱刻乱画。今天我们将依次游览们将依次参观张飞庙、贡院,锦屏山等景点。希望大家游览愉快。

阆中古城在周朝时期是巴国别都,于公元前314年置县,汉时为巴郡,隋朝时期改称为阆内县,宋代以后才称为阆中,历代多为州、郡、府治所,至今已有2300多年的建城历史了。历史给予了阆中丰厚的馈赠,。很多文人墨客为阆中留下了众多赞美的诗篇。诗圣“杜甫”为阆中留下了“阆中胜事可肠断,阆州城南天下稀”的千古名句。除此之外,阆中还被誉为中国最大的“风水古城”。为什么这么说呢?是因为古城完全是按照中国传统的风水理论修建的一座城市,四面环山,水绕三方。在这里山、水、城融为一体。

朋友们,一路说说看看,不知不觉我们就来到闻名遐迩的张飞庙了。张飞庙也就是汉桓侯祠。桓侯祠主体建筑均沿中轴线布局,由南向北。主要由山门、敌万楼、木牌坊、大殿、后殿、墓亭及张飞墓和墓后园林组成。

走过山门。穿过敌万楼。现在来到的是张飞庙大殿,大家请看,中间正壁那尊竖眉瞠目,不怒而威的塑像便是张飞了,张飞,字翼德,东汉末年跟随刘备起兵。刘备称帝后,被封为巴西太守,镇守阆中长达七年之久。这尊塑像2米多高。头戴王冠,身着锦袍,手捧玉笏。大多数人都疑问说张飞不是武将吗?为什么会塑他的冠冕文身坐像呢?。原来啊!是因为:在清嘉庆年间,张飞被追封为"桓侯大帝",所以这里塑了他冠冕文身的塑像。这旁边的是张飞生前使用过的兵器——铁鞭和铁矛,。这个铁鞭有一米余长,共有29节,重约20公斤,由此可见要想将这个铁鞭挥舞自如,得需要多大力气。从这里我们就能想象得到张飞是多么力大无比了。这个铁矛上端的刀刃曲折如蛇,这就是传说中张飞在战场上使用的“丈八蛇矛了”!。

大殿后实为墓亭,墓亭古雅简朴,肃然卓立。亭柱一副对联:

随先主逐鹿中原,北征南战,地只西川称帝业;

剩残躯付诸荒冢,春去冬来,人犹千古吊忠魂。上联写张飞追随刘备一生征战,但实现统一全国的壮志未酬,英魂仍存遗憾。下联说他死后,此墓虽只埋了无头之躯,但人们纪念其忠勇的情怀千古不衰。

关于无头之躯,这里还有一个民间传说,据说张飞被杀后,凶手范、张二人割下头颅,想拿到东吴献给孙权,他们乘船时听说:孙权正向刘备求和,二人惊惶无措就把张飞的头抛入江中,浮到云阳地界被一位渔翁捞起,葬在云阳凤凰山麓。这就是为什么张飞"头葬云阳,身葬阆中"的悲壮故事了。大家请看,张飞墓,高约6米,方圆100多平方米,全用黄土垒成,宛如一个椭圆形的小山峦,岁月沧桑,墓穴仍安然无恙。墓上古木森森,碧草丛生,似乎印证出千百年来无数后人对这位勇猛刚强、嫉恶如仇的"张三爷"的敬爱。墓亭下的拱穴内,端坐着张飞的武身像。墓像前 ,盘龙石斗窝 叫"长明灯"。千百年来,后人为张飞墓添油点灯,这盏长明灯灯火不灭。

四川阆中古城导游词600篇九

现在看到的是观星楼,观星楼是阆中古城的骄傲。我们开始说过,在祖国古代天文学研究的灿澜星空中,阆中出现过群星争耀的壮丽图景。他孕育和诞生了伟大的天文学家落下闳、任文孙父子和周舒祖孙三代等,为我国天文、气象学做出卓越贡献的英才,使阆中成为我国汉唐时期最大的天文研究中心。特别是世界天文史上有划时代意义的《太初历》作者,伟大的天文学家和历算学家落下闳。落下闳(公元前156年——公元前87年),字长公,阆中市人,精通天文,擅长历算,受汉武帝征聘,官至太史待诏。一生中对天文科学的最大贡献有三个:一是创立了“浑天说”,认为宇宙是变化的,而且变化是有规律的;二是创制“浑天仪”,是当时世界上最科学、最精密的天体观察仪,并建立了观星楼;三是制“太初历”,为历史上第一部有文字记载的历法。落下闳的天文研究成就对中国乃至世界的天文研究都有较大的影响。英国的李约瑟在《中国科学技术史》中说他是世界天文学领域里“灿烂的星座”。

在落下闳的影响之下,汉末又诞生了任文孙、任文公父子天文学家,任氏父子在继承落下闳天文研究的基础上,在气象方面有独到的见解,能够预报风雨、旱灾、洪灾,对天文气象的发展作出了巨大的贡献。

三国时,阆中的周舒、周群、周巨祖孙三代献身于天文事业,成为继任氏父子之后的又一天文世家。他们在自己的庭院中建筑了测天台,不避寒暑,长年观察,辛勤地积累资料,加以判断,从而得出十分准确的结论。

由于阆中天文研究人才辈出,故历代诸多天文研究行家被吸引来此。唐初,着名天文学家袁天罡在高宗时(650年)迁于阆中定居,于蟠龙山建立观星台以测天象。袁天罡死后葬于阆中。紧接着大天文学家、数学家李淳风,寻其行踪,于公元664年也来到阆中,继续天文数学研究,李淳风死后亦葬于阆中。

前面那座古朴的大殿是锦屏碑林,里面收藏着历代名人书画墨迹260多件,刻工精美,内容丰富。其中的张飞“立铭”汉隶碑,杜甫的“诗篇”,吴道子的“观音”,郑板桥的“竹”,张善子的“虎”,最受称道。

来此是“八仙洞”,相传八仙之一的吕洞宾曾在此修道。洞深孔多米,宽约17米,塑有八仙神像,洞外“飞仙阁”檐牙高耸,古树浓荫遮地,真有钟灵毓秀的味道,难怪唐代星象学家袁天罡在山壁上大书“此山磨灭,英灵乃绝”八个大字。

也许正由于吕洞宾在此修道的传说,后人在山上修起一座群体建筑构成的宫观,定名为吕祖阁。建筑依山势走向,以中心阁楼为主体,配以偏殿,长廊,面积达__多平方米。

有人说,站在锦屏山八仙洞口看阆中古城,最能看出古城的佳妙风水和前人建城的高超构思。你看,嘉陵江在山下绕了一个大弯,把对岸形成一“半岛”,江水澄碧,就像一条玉带束腰,而古城就建在半岛上,盘龙山有如一条巨龙绕伏其后,锦屏山似一道画屏遮护在前,左右群山扶持,城中街市如花开叶布,与山水相照应,使古城奠基于同自然和谐共存的环境之上,体现了“天人合一”,生生不息的思想,很有科考价值。我是不懂风水之学的,只觉得从锦屏山看古城,那山水城楼交相辉映的美景,真是令人陶醉。还是陆游的诗说得好:“城中飞阁连危亭,处处城廓如锦屏。涉江亲到锦屏山,却望城廓如丹青”。也难怪杜甫写诗称赞锦屏山“来游此地不知还”了。各位佳宾,是否也有同感呢!古城民居

我们现在去游览阆中古城保护区,观赏的方式是自由组合,步行游览,__的时候返回住地。

阆中的古城保护区,多系明清建筑,也有些在风格上还保留着唐末时期特色。古城以巍峨高耸的华光楼为轴心,成扇形面展开,大街宽不过8米、小巷则仅两三米,一色青瓦平房,朴素淡雅。街巷布满民居古院,推开院门,多有照壁,转过照壁方能入院。进得一院,还有二院三院,大院套小院,天井连天井,池台花木,回廊亭榭,古色古香。再仔细观看,长檐遮街,上面的瓦当吊檐,下面的木质门窗,都有花纹雕饰,特别是那些木条花格窗,其图案千姿百态,争奇斗巧,每一件都是精美的艺术品。门窗的上抹板、隔板、腰华板、下抹板,又各有雕刻,或为禽鸟,或为花卉,或镌刻“福、禄、寿、喜”,除象征吉祥如意外,还有浓郁的审美情趣。各个民居古院,其建筑风格也各不相同,或为商家华丽型,或为文人典雅型,还有官家宏大气派的和呈“多”字形的大院。如果住在一个大院宾馆里,透过花窗观看院中花木池台,禁不住一股思古之幽情油然而生,真有味道。

好了,我只说这些,个中意趣,各位在游览中自能体会,我们回头再相互交流。现在我愿意参加一组同去观光,谁欢迎我?好,我们一起出发……

四川阆中古城导游词600篇十

位游客,大家好,欢迎大家游览阆中古城。阆中古城位于阆中市城区南侧,是四川省唯一完整保存下来的古城。在游览过程中请大家注意安全,紧跟团队,以免走失。今天,我们将依次参观张飞庙、锦屏山和极富特色的古城保护区。两小时后,我们在古城保护区大门前集合等车。

阆中县始建于,公元前316年秦惠文王时期,阆中古城和同为第二批国家历史文化名城的山西平遥、云南丽江、安徽歙县并称为“保存最为完好的四大古城”。阆中古城 山围四面,水绕三方,天造地设,风景优美 素有“阆苑仙境”、“巴国蜀国要冲”之誉,唐代诗人杜甫在这里留下了“阆州城南天下稀”的千古名句。

阆中之古,首先是古城历史悠久。仅以建县的历史计算,至今已有2300多年的历史。

第二是对中国的历史文化发展具有影响的名人辈出,古迹犹存。同时阆中又是革命老区。第三是古城保存比较完整,文物价值很高。好,各位游客朋友,说到这里,张飞庙就到了。

我们现在看到的就是闻名遐迩的汉桓侯祠,亦称张飞庙。张飞,字翼德,东汉末年跟随刘备起兵。刘备称帝后,张飞镇守阆中前后七年之久。公元221年,张飞被部将范强、张达杀害,葬于阆中,被追封为桓侯。阆中人民追慕张飞英勇忠诚,于墓前建阙立庙。现存的张飞庙是一组唐代风格的明、清建筑—四合院,由山门、敌万楼、牌坊、大殿、厢房等组成,占地5000多平方米,规模宏大,建造精美。

走过山门。穿过敌万楼。现在来到张飞庙大殿,大家请看,中间端坐一尊竖眉瞠目,状貌威猛的张飞,却怎么是头戴王冠,身着锦袍,手捧玉笏的塑像呢?原来在嘉庆年间,张飞被追封为"桓侯大帝",殿上塑的是他的冠冕文身坐像。塑像两边是长子张苞—执蛇矛、功曹马齐—捧丹书。左右两壁是岳飞草书的诸葛亮"前后出师表",将大殿烘托出一派威严而儒雅的气氛。

大殿后实为墓亭,古雅简朴,肃然卓立。亭柱一副对联: 随先主逐鹿中原,北征南战,地只西川称帝业; 剩残躯付诸荒冢,春去冬来,人犹千古吊忠魂。

上联写张飞追随刘备一生征战,但实现统一全国的壮志未酬,英魂仍存遗憾。下联说他死后,此墓虽只埋了无头之躯,但人们纪念其忠勇的情怀千古不衰。

无头之躯有一个民间传说,据说张飞被杀后,凶手范、张二人割下头颅,想拿到东吴献给孙权,他们乘船时听说:孙权正向刘备求和,二人惊惶无措就把张飞的头抛入江中,浮到云阳地界被一位渔翁捞起,葬在云阳凤凰山麓。这就是张飞"头葬云阳,身葬阆中"的悲壮故事。

大家请看,张飞墓,高约6米,方圆100多平方米,全用黄土垒成,宛如一个椭圆形的小山峦,岁月沧桑,墓穴仍安然无恙。墓上古木森森,碧草丛生,似乎印证出千百年来无数后人对这位勇猛刚强、嫉恶如仇的"张三爷"的敬爱。

墓亭下 拱穴内,端坐着张飞的武身像。像前 盘龙石斗窝叫"长明灯"。据说,张飞驻守阆中时,在瓦口隘,大败张合,取得胜利,阆中人感激他。在他死后,特意选取最好的石头雕成"长明灯"。千百年来,每到清明节,人们都要为张飞扫墓,给长明灯献油,纪念这位为阆中做出伟大贡献的“桓侯大帝”。

好了,游客朋友们,张飞庙我们就说到这儿了,请大家跟随我的脚步前往下一个景点——锦屏山吧!

四川阆中古城导游词600篇十一

各位嘉宾:

欢迎大家到我们这座着名的川北古城游览。

阆中位于四川盆地北部、嘉陵江中游,城市建在巴山脉、剑门山脉与嘉陵江水系聚结交汇处,山围四面、水绕三方,形势十分险要。前人说它“前控六路之师,后据西蜀之粟,左通荆襄,右出秦陇”。自古就是一座军事重镇,1986年国务院公布为全国历史文化名城之一。

我们今天的游程安排是:先去游览张飞庙和锦屏山,然后参观游览极有特色的古城保护区。现在,请允许我先把阆中古城的特色,概略地作一介绍,以作为各位实地游览前的引导。

阆中之古,首先是古城历史悠久。阆中是古巴国的都城。据史料记载,周武王伐纣,得到巴人的大力协助“牧野之战”就是由巴人组成的“虎贲”军出战,“凌殷人倒戈”,而取得胜利。周王朝建立后封巴人为子国,都江州(即今重庆),因避楚国之逼,迁都阆中。公元前3__年秦惠文王灭巴后置巴西郡,设阆中县。此后历代皆为郡、州、府、道的治所,也是那时川北政治经济文化的中心。仅以建县的历史计算,至今已有2300多年。

第二是对中国的历史文化发展具有影响的名人辈出,古迹犹存。阆中这座山水秀丽的古城,不仅吸引了历代众多的名人贤士来此游览居停,留下大量的文物古迹。而且古城本身就是一个地灵人杰,人才辈出的地方。汉武帝时,这里诞生了伟大的天文学家和历算家落下闳,其后有东汉时期的大气象学家任文孙父子和“三国时期的周舒、周群、周巨祖孙三代天文学家。前后4__年间,阆中出了这么多成就卓着的天文学家实在了不起。此外,三国良将马忠、谋士程畿、南宋抗金猛将张宪、元明花木兰式女英雄韩娥,清代农民起义领袖兰廷瑞等都出生在这里。有人统计出:从晚唐到清朝1000多年间,阆中先后出了4个状元,94个进士,几百个举人。

阆中又是革命老区。1933年红四方面军建立川陕革命根据地,在阆中地区转战3年之久,并建立了阆中、阆南苏维埃政权,19000多阆中优秀儿女参加了中国工农红军。

第三是古城保存比较完整,文物价值很高。改革开放以来,阆中的社会经济发展很快,城市建设也取得很大成绩。与此同时,市政府十分重视对古城区和文物古迹的维修保护,特别是令现代建筑界十分关注的古城格局,古风浓郁的上百条古街道和成群连片的四川古民后,更是十分珍贵的人文瑰宝。许多人参观之后,总是赞叹不已,连称“别处少见”。

四川阆中古城导游词600篇十二

首先,就是大家眼前的这款作弊服了,大家可以看到,衣服上面写满了密密麻麻的小字,有点像我们今天很流行的文化衫啊。但这在当年这却是考生们作弊时的不二法宝,真可谓是一衣在身,有如神助。但这种作弊方式有一个致命的缺点,那就是书写面积太大,目标太过明显,这样,很容易被监考老师发现了。于是后来,聪明的考官就在贡院的门口设立了两个大的洗澡堂,规定凡是进入贡院考试的考生,在考试之前都要统一洗澡,并换上统一的衣服,当然,这样的作弊方式就不能再用了。

我们接着再来看另外一种作弊方式,飞鸽传书。古时候不像我们现在,没有手机,通讯方式都还比较原始,绞尽脑汁想要作弊的考生就想到了利用飞鸽传书的原理,在考场将考题写在小字条上由鸽子传出去,然后墙外的人再通过鸽子将答案传送回来,这种作弊方式似乎有点类似于我们今天的手机短信作弊。但是这一切都瞒不过火眼金睛的监考考官啊,考官发现后就在考场的四周燃放鞭炮,把飞鸽全都吓走了,并且还在楼上放老鹰来把飞鸽吃掉。

接着,我们再来看看古时候的小抄,大家可以看,小抄的字非常的小,整个小抄做的非常的精致,现在看来也可以算得上一件工艺品了。这么小的字用一般的毛笔是很难写出来的,这上面的字可都是是用老鼠的胡须特制的毛笔写成的,考生就将这种纸条放在衣服或者饭菜里面进行作弊,更有甚者,用手抄加刺绣的方式,把四书五经的重要内容绣在内衣的夹层里面。

阆中状元馆

这里是阆中状元馆,大家都知道“状元”这个称号是来之不易的,需要过五关斩六将方能荣登宝座。我们阆中自古便是钟灵毓秀,人才辈出,从唐代到清末废除科举,这1300多年间,四川共出了19个状元,阆中就独占4名,位列四川省首位,在整个西南地区都堪称翘楚!而且这四个人恰好还是两兄弟,这在历史上更是少之又少!

大家首先请看这两尊塑像,他们是唐代的一对兄弟状元,尹枢、尹极,他们中状元都是70岁高龄了,是中国历史上第一对兄弟状元,也是最老的一对兄弟状元。由于文才出众,被人们称之为“梧桐双凤”。那旁边这两位呢,是阆中另外一对兄弟状元,其实他们是兄弟三人,这里是老大陈尧叟,老三陈尧咨,老二陈尧佐中的是进士,不在其列。大家可以看一下老三陈尧咨,他是一副将军装扮,不要以为他中的是武状元,其实他中的也是文状元,这样的装扮是因为陈尧咨是既能文又能武。欧阳修在《卖油翁》里写到:尧咨闪射,当世无双。说的就是他了,他也是历史上唯一一位由文职改任武职的文状元。

四川阆中古城导游词600篇十三

各位佳宾,我们现在看到的就是名闻遐迩的桓侯祠,亦称张飞庙。张飞,字益德(翼德),东汉末年跟随刘备起兵,情同手足。刘备定益州称帝后,封张飞为司隶校尉、巴西太守镇守阆中前后七年之久。公元221年,张飞为急于报东吴杀害关羽之仇,逼迫部下赶制白盔白甲,被部将范强、张达杀害,葬于阆中,被追封为桓侯。阆中追慕张飞忠勇,于墓前建阙立庙,岁祀不缺。唐时庙叫:“张侯祠”,明代称“雄威庙”,清代以来才叫“桓侯祠”。现存的张飞庙是一组唐代风格的明、清建筑四合院,由山门、敌万楼、牌坊、大殿、厢房等组成,占地5000多平方米,规模宏大,建造精美。

山门为明代重建,正门上端悬挂的“汉桓侯祠”大匾为最近逝世的着名书法家赵朴初书写。跨进八字形的大门,便是高耸的敌万楼。“敌万”是说张飞有力敌万天之勇。楼为明初所建,重檐歇山式屋顶,四瓣镶成的梅花方形柱,翘角连云、气势不凡。两边侧殿为文物展览室和群塑厅。文物展出有1000多件。请看这百碑文字:“汉将军飞,率精兵万人大破贼首张都于八蒙,立铭”。据说是张飞亲笔书写,足见张飞不仅是一员猛将,而且是一位造诣颇深的书法家。世人说张飞是粗中有细,这石碑算得一件证物。群塑馆里根据《三国演义》描写的张飞主要业绩制作的六组雕塑,各位都熟悉《三国演义》,不用我再作解说,就请一一看去。

走进大殿,中间端坐一尊竖眉瞠目,状貌威猛的张飞,却怎么是头戴王冠,身着锦袍,手捧玉笏的塑像呢?原来在清朝嘉庆年间,张飞被追封为“桓侯大帝”,殿上塑的是他的冠冕文身坐像。塑像两边是长子张苞执蛇矛、功曹马齐捧丹书。左右两壁是岳飞草书的诸葛亮“前后出师表”,将大殿烘托出一派威严而儒雅的气氛。

后殿实为墓亭,古雅简朴,肃然卓立。亭柱一副对联:

随先主逐鹿中原,北征南战,地只西川称帝业;

剩残躯付诸荒冢,春去冬来,人犹千古吊忠魂。

上联写张飞追随刘备一生征战,但实现统一全国的壮志未酬,英魂仍存遗憾。下联说他死后,此墓虽只埋了无头之躯,但人们纪念其忠勇的情怀千古不衰。无头之躯有一个民间传说,据说张飞被杀后,凶手范强、张达二人割下头颅,想拿到东吴献给孙权,作为进身之阶,他们乘船顺长江东下时听说孙权正向刘备求和,二人惊惶无措就把张飞的头抛入江中,浮到云阳地界被一位渔翁捞起,葬在云阳凤凰山麓。这就是张“头葬云阳,身葬阆中”的悲壮故事。

四川阆中古城导游词600篇十四

皆さん、こんにちは、中国の歴史文化名城である古都langlang中を旅行することを歓迎します。みんなのガイドです。私と一緒に古城を観光して、楽しい一日を過ごしてください。

langzhangは嘉陵江の中流に位置し、四川北西部にあり、全市の面積は1878平方キロメートルで、全市の人口は90万ぐらいで、1986年に国務院により全国歴史文化名城として承認されました。langzhangは四川全体が今まで保持してきた最も完全な規模の最大の古城で、雲南麗江、山西平遥、安徽省歙県とともに、中国の四大古城と呼ばれています。langzhouの中には「lang苑仙境」、「嘉陵第一江山」という美名があり、唐代の詩人杜甫はここで「lang苑城南天下稀」という千古の名句を残しました。

はい、ここと言えば、私達が最初に見学する観光スポットの張飛廟がもうすぐ来ます。

張飛廟

私達のありかのは国家級の重点の文化財の保護の部門です――漢桓侯祠、通称張飛廟、今まで1700年余りの歴史にすでにありました。現在の桓侯祠は明清の時に再建された四合庭式の古い建築群で、敷地面積は5000平方メートル以上で、規模は広くて、建築が精巧です。

張飛廟墓亭

ここは張飛の墓亭です。ここの墓亭の柱に対聯があります。上連は「先主に従って中原を逐鹿し、北征南戦、地は西川だけが帝業と称する」という意味で、張飛は劉備に追従して一生戦をするという意味ですが、全国統一の志半ばを実現しても、英魂は残念な思いを残しています。下の句は「余命を残して荒塚に送り、春に冬に来ても、人はなお千古に忠霊を弔う」という意味で、張飛が死んだ後、この墓は無頭の体を埋めただけですが、人々はその勇敢さを記念する気持ちは千古に衰えないという意味です。

この墓亭の下に置いたアーチの中で、端座に座っているのは張飛の武体像です。このヒョウの頭環眼、燕顎虎須の猛張飛は皆さんの心の中の張飛と何点か似ていますか?前に並べられた盘竜石斗巣は「長明灯」と呼ばれています。張飛が駐守lang中にいる時、曹魏大将張合が五万の大軍を率いてブラジルの首府に進攻しました。手足は万人にすぎないですが、langの中の人民の支持によって、少数で多く、大敗しました。langzhangは彼の勇敢さに感謝しています。その死後、特に最高の石細工を選んでこの「長明灯」に彫刻しました。千百年以来、清明節になると、人々は張飛のために墓参りをして、明灯に油を献上します。

張飛廟の本堂

玄関に入ると、まず目に入ったのは足を組んで運勢を合わせて、気勢が抜群の敵万楼で、「敵万」という不思議な名前で、張飛の有力な敵万夫の勇という意味です。建物の両側は文化財展示室と群塑ホールです。この二つの展示室を通り抜けて、私達が来たのは張飛廟の本堂です。

まず外観から本堂全体の建築スタイルを鑑賞できます。本堂は休山式の屋根で、煉瓦の彫刻は屋根に合わせています。軒の下には「剛強直理」という金の額があります。これは清代の果親王が自ら書いたものです。正殿に入ると、真ん中に座っている二メートルぐらいの高さと形が立派な塑像は張飛です。おかしいと思われるかもしれませんが、なぜこの張飛像は王冠を被って錦袍を身につけていますか?もともとは清朝の嘉慶年間に、張飛が桓侯大帝として封印されました。両壁式の岳飛草書を左右する諸葛亮の前後に師表を出して、更に正殿を威厳、儒雅に引き立てます。

華光楼

私たちが今見ているのはlangzhouの古い都市のランドマークです。この省クラスの文化財保護部門はlangzhong城南、嘉陵江沿いにそびえ立っています。このlangzhangの中の楼閣といえば、華光楼は初めてその突進に当たります。歴代langlangの中の文人墨客に行ったことがあります。このビルを詩としています。華光楼は多くの古城の住民区の中で際立っていて、気勢が高くて、古典建築の特色に富んでいます。「lang苑第一階」という称号がもとからあります。

みんなは見ることができて、華光楼の下の階は1つの5メートルの高さの石のアーチの扉で、これは人々の往来の通り抜ける大通りを通るために使うのです。華光楼は嘉陵江に近いため、古代はlangの中の航路輸送の中枢であり、加えて、当時のビルの両側は手工業と仕事場であったので、昔の華光楼下は商人が集まって、にぎやかで、かつて詩雲がありました。上の階は昔の貴族たちが文人墨客を誘って詩を詠み合って山水を鑑賞するところです。

皆さん、この石拱門の彫刻の内容をよく見てください。アーチの上で南北にそれぞれ「国民党を倒してこそ帝国主義を打ちやすい」と「ソビエト政府は労農兵自身の政府です。」これらのスローガンは中国工農紅軍の紅四方面軍がlanglang中で征戦した時に残したものです。これらのスローガンのために、時間の中に華光楼は紅衛兵の破壊に遭ってからこそ、私達は今この保存されている完全な華光楼を見る機会があります。

滕王閣

私達が今見学しているのはlangzhangの古城の北、嘉陵江玉台山にある滕王閣です。王勃の「滕王閣序」を通じて、とっくに滕王閣のこの3つの字が雷のように耳に貫かれていますが、この滕王閣は他の滕王閣ではなく、王ブルが描いている滕王閣は江西南昌にあります。でも、この二つの滕王閣には共通点があります。彼らは全部一人のために建てられたのです。この人は唐高祖李淵の22番目の息子で、つまり唐騰王李元嬰です。聞くところによると、李元嬰はlanglangの中で値下げされて、宮中の贅沢な生活を続けるために、集めたお金でこの気勢が雄大で立派な宮殿式建築群を建てました。今から1300年以上の歴史があります。

今皆さんの目の前に見られているこの石塔は、国家の重点保護文化財である唐代の舎利石塔です。紀元4世紀の唐代に建てられました。高さは約8.25メートルです。この宝塔の由来についてはもう一つのエピソードがあります。騰王李元嬰は小さい時から皇居で甘やかされ、享楽をむさぼりました。langlangをけなされた後も相変わらず収斂しないで、奢侈で淫逸で、彼は来世のために依然としてこのような贅沢な生活を送ることができます。浮屠を建造するという方式を通じて、来世も人間の栄耀を享楽できるように祈ります。三つの仏塔を建てました。残りの二つは歴史の移り変わりのために、歴史の流れに埋もれてしまいました。今は皆さんの目の前に残っているだけです。この仏塔については不思議な視覚効果があります。これはあなたがこの仏塔の周りを回ることです。どの方向から仏塔を見ても傾いているので、この塔はまた人々に「斜塔」と呼ばれています。また、李元嬰が官吏として正しくないと嘲笑されています。彼が修理した仏塔も全部斜めです。

四川阆中古城导游词600篇十五

佳賓の皆様:

みなさん、私たちの有名な川北古城へ観光に来てください。

langzhangは四川盆地の北部、嘉陵江の中流に位置しています。都市は巴山脈、剣門山脈と嘉陵江水系の合流地点に建てられています。前人は「前控六路の師、後は西蜀の粟、左通荊襄、右出秦隴」と言っていました。昔から軍事の重要な町であり、1986年に国務院が公布したのは全国歴史文化都市の一つです。

今日の旅行のスケジュールは張飛廟と錦屏山を見物して、特色のある古城保護区を見学します。まず、langlangの古城の特色を概略的に紹介させていただきます。

langlangの古代は、まず古い都市の歴史が長いです。langはキューバの都です。史料によると、周武王は巴人の強力な協力を得て、「牧野の戦い」は巴人からなる「虎噴」軍が戦いに出て、「凌殷人倒戈」で勝利したという。周王朝が建立した後に巴人を子の国に封じて、都江州(つまり今の重慶)、楚国の強迫を避けるため、都langlang中に移ります。紀元前3__年秦恵文王が滅亡した後にブラジル郡を置いて、langlang中県を設けます。その後の歴代はすべて郡、州、府、道の治所で、その時の川北政治経済文化の中心です。県を建てる歴史だけで計算して、今なお2300年余りになりました。

第二に、中国の歴史と文化の発展に影響を与えた有名人が輩出し、古跡が残されている。langzhangのこの山水の美しい古城は、歴代の多くの有名人の賢人を引きつけてここに来て観光して止まって、大量の文化財の古跡を残しました。そして古城はもともと霊験あらたで、人材が輩出されているところです。漢の武帝の時に、ここで偉大な天文学者と暦家の名前が生まれました。その後、東漢時代の大気象学者任文孫親子と「三国時代の周舒、周群、周巨祖孫の三代天文学者がいます。前と後の4×年間、langでこんなに多くの業績を残した天文学者は本当に素晴らしいです。また、三国良将馬忠、策士程畿、南宋の抗金猛将張憲、元明の花木蘭式の女性英雄韓三日月、清代の農民蜂起指導者蘭廷瑞などがここで生まれました。ある人は統計しています。夜唐から清の1000年余りの間に、langlangは前後して4つの状元、94人の進士、数百人の挙人が出ました。

langlangはまた革命の古い地区である。1933年に紅四方面軍は立川陝西革命の根拠地を建設し、langlang中地区で3年の間転戦し、lang中、lang南蘇維耶政権を建立しました。19000余lang中の優秀な子供は中国労農紅軍に参加しました。

第三は古城の保存が比較的完備していて、文化財の価値が高いです。改革開放以来、langlangの社会経済の発展はとても速く、都市建設も大きな成果を収めました。同時に、市政府は古城区と文物古跡の修理保護を非常に重視しています。特に現代建築界に注目されている古城の構造は、古風が濃厚な上に百条の古い町並みと群れをなしている四川古民后代には、更に非常に貴重な人文宝です。多くの人が見学した後、いつも「他のところは珍しい」と賛嘆してやまない。

はい、ここまで話してください。張飛廟が来ました。桓侯祠の墓--張飛廟

佳賓の皆様、今見ているのは有名な桓侯祠です。張飛廟とも呼ばれています。張飛、字益徳(翼徳)、東漢末に劉備に従って兵を起こし、兄弟のような仲です。劉備の定益州は帝を量った後に、張飛を司隷校尉に封じて、ブラジルの太守のためにlangの中で前後7年の長い間守ります。紀元221年、張飛は東呉に報告して関羽の仇を殺害することを急ぐため、部下に白兜の白甲を制圧させて、部に范強、張達に殺害されて、langlangの中で葬られて、桓侯に追われます。langzhangは張飛忠勇を追慕し、墓の前に宮城を建てて廟を立てる。唐の時の廟は「張侯祠」と呼ばれ、明代は「雄威廟」と呼ばれ、清代以来「桓侯祠」と呼ばれています。現存する張飛廟は唐代風の明、清の四合院で、山門、敵万楼、鳥居、本堂、脇棟などから構成されています。敷地面積は5000平方メートル以上で、規模は広大で、建築が精巧です。

山門は明代の再建で、正門の上端に掲げられた「漢桓侯祠」の額は最近亡くなった著名な書家趙朴初が書いている。八字形の門を入ると,高くそびえる敵万楼である。「敵万」は張飛の有力な敵である万日の勇をいう。楼は明朝の初めに建てられたもので、軒は山式の屋根で、梅の四角形の柱が四つになっています。両側殿は文化財展示室と群塑ホールです。文物は1000点以上展示されています。この百碑の文字を見てください。「漢将軍飛、精兵万人大破賊首張は全部八蒙で、銘を立てます。」張飛が直筆で書いたと言われています。足見張飛は猛将だけでなく、造詣の深い書道家です。張飛は太さの中に細さがあると世間で言われていますが、この石碑は証拠品です。群塑館では「三国志演義」によって描かれた張飛の主な業績によって作られた六つの彫刻があります。皆さんは「三国志演義」をよく知っています。

正殿に入ると、真ん中には眉を立てて目を見張りますが、顔は堂々としています。どうして王冠を被っていますか?金衣を着て、玉笏の塑像を手に持っていますか?清朝の嘉慶年間に、張飛は「桓侯大帝」と呼ばれるようになりました。塑像の両側には長男の張つぼみが蛇の矛を持ち、功曹馬斉が丹書をささげた。左右の2つの壁は岳飛草書の諸葛亮の「前後出師表」で、堂々とした上品な雰囲気を醸し出しています。

後殿は実に墓亭で、古雅で質朴で、厳粛で際立っています。亭柱の一対の対聯:

先に主に鹿の中原を追うことに従って、北は南の戦を募集して、地は西川だけが帝業を量ります;

残った体は荒塚に移され、春に冬に来て、人はなお千古に忠魂を弔う。

上連は張飛が劉備について一生戦ったと書いていますが、全国統一の志半ばを実現したのは残念です。下の句は彼が死んだ後、この墓は頭のない体だけを埋めましたが、人々はその忠勇を記念する気持ちは千古不滅です。首のない胴は民間伝説があり、張飛が殺された後、犯人の范強、張達二人は首を切って、東呉を孫権に捧げたいです。進身の階段として、船で順長江東下に行く時、孫権が劉備に和睦を求めていると聞きました。これは「頭葬雲陽、体葬langlang中」の悲壮な物語です。

墓亭の下の庵の形にはアーチがあり、座り込んで飛ぶ武体像がある。見てください。これは本物の「ヒョウの頭に環をして、あごの虎須の猛張が飛んでいるでしょう。前に並んでいる盤竜石斗の巣の名前は「長明灯」です。張飛がlanglang中に駐屯していた時、曹魏大将の張?は5万人の大軍を率いてブラジルの首府langlang中に進攻しました。張飛は万人を守っていませんでした。あたごの水路で張合と拒絶しました。前後50日に張飛は現地の人々の支持を得て、梓潼山小路から直接張合大本営を取りました。一番いい石を取って、この「長明灯」に彫刻します。千百年以来、清明節になると、人々は張飛のために墓参りをして、明灯に油を献上します。

張飛墓は高さ約6メートル、周囲100平方メートル以上で、全部黄土で築いています。まるで楕円形の小山のようです。歳月の移り変わり、墓穴は大丈夫です。墓の上で古木の森、青々とした草の青々とした姿は、千百年以来、無数の後代の人がこの勇猛で気丈で、憎らしい「張三爺」に対する敬愛を証明しているようです。langzhouの仙境――錦屏山

ここに来たのはlangzhang市の「嘉陵第一江山」というあなたの錦屏山風観光スポットです。この錦を見てください。山の勢いが起伏し、連峰が連なり、山の木々が青々としています。鳥の花の香り、山の下水流の流れが急な嘉陵江は山のふもとから碧玉のようにうねりながら流れています。山水が溶け合い、美しい清雅な天然の絵を構成しています。例えば、みんながよく知っている唐代の詩人杜甫、李商隠、大画家の呉道子、宋代の文豪蘇東坡、詩人の黄庭堅、陸遊などはかつて錦屏山の風景に魅了されました。杜甫の詩の中では「langzhong城南天下稀」と呼ばれています。ここ数年の観光スポットは修理して整備して、更に新しい風采を加えて、特に自然の美しい景色と歴史の文化のが互いに照り映えて、十分にlangの中で遊覧する古雅な品位を展示して、私達にそれが観光の旅であることを悟らせて、また知識の旅です。今は観光地の中の名所を目印にして、一緒に観光しましょう。

ここはlanglang中杜少陵祠で、杜甫を記念する祠です。杜甫は唐代の宗広徳元年(西暦763年)8月と広徳の二年に二回もlanglangに来ました。家族でここに半年住んでいます。その間に60曲以上の詩を書きました。彼は「lang山歌」と「lang水歌」の中で、langの中の山の「己覚気と嵩華敵」を賛美しています。langの中の水「石黛碧玉相依」。杜少陵祠は山に従って建てられ、唐宋時代の厳かで典雅な風格を維持しました。祠の前室に掲げられた70枚以上の詩と詞の木刻と書画は詩人に対する懐かしさを託しました。本殿は漢白玉の杜甫立像で、文体を練って新章を構想しています。この彫刻はもう古いものではないですが、南宋の愛国詩人陸遊から乾いた道で8年に2回、langlangの中で少数陵祠を拝観した後、「錦屏で少陵祠堂に参拝する」という詩の中で彼が見た杜甫像の風景を書いて、いくつかの印象を受けることができます。虚堂は子杜子を祭って、眉宇は高くて冷たいです。江水を照らして、古来何人を知っていますか?この老は今も死なないです。眉宇の高寒の杜甫は、孤独なのに長く祠の中にいて、後代の人に弔われて、つまり芳名百世を残しました。

一緒に景色を見に行きました。宋烈文侯祠、つまり張憲祠です。張憲というと、見知らぬ人もいるかもしれませんが、岳飛のそばにいる愛将と言えば、知っていることが多いです。張憲は錦つい山のこの一帯の人で、南宋の時岳飛は兵を率いて金に抵抗して、張憲は岳飛の帳簿の下で将に入ります。彼は勇猛で戦いが上手で、赤胆忠心で、功授の副都統制で、岳飛の器重さを深く受けて、そして婿になります。岳家軍が朱仙鎮を直撃し、いよいよ「黄龍を痛飲する」時、宋高宗をはじめとする降参派は岳飛が徽章を迎え、欽二帝を迎えることを恐れた後、自分は皇位を喪失し、12個の金メダルを連発して岳飛班師を召還し、奸臣秦桧は「あってはならない」という罪名で岳飛を謀殺した。紹興11年12月29日(西暦1142年1月27日)、わずか27歳の張憲は岳飛父子とともに杭州風波亭で殺害され、岳墓から遠くない東山港に葬られました。20年後、金兵は再び南に侵攻し、登基したばかりの孝宗皇帝は臣民の抗金を激励するために、岳家軍に対して「平反封」をしました。張憲は龍神衛士廂都の指揮使として追われました。明代、更に烈文侯として封印して、郷里のlang州で祠を建てて記念します。

張憲祠は敷地面積が約30ムーで、座西は東に、三面は山に囲まれています。土地イメージは一つの囲い椅子で、昔の人が祠堂を錦屏山の中腹に選んだところは、一つの「風水の宝地」と言えます。それに、あの威勢の高い青松、青々とした柏、剛柔相済の樟緑楊を加えて、祠の廟を厳重に囲い、更に荘重で静かに見える。張宪の塑像は殿内ではなく、院の中に置いてあります。「意匠独自」の表現でもあります。张宪は功労が高くて、冤罪を被っています。彼が金甲を身につけているのを見てください。左手で剣を押して、右手で腰を撫でて、威厳があります。更に彼の表情を見て、園は怒って目を開けて、まるで聞いています:金保国に抵抗して、罪がありますか?眉をひそめて、岳飛のクラスの先生を説得することができなかったことに対して心を痛めているようです。ここを見て、西子湖畔の千古の岳王の墓と悪名を残した秦桧のひざまずいた像を連想して、私達はいずれも“歴史が最も公正です”“民心が最も公平です”を感じます。

今見たのは星楼で、星楼を見るのはlangzhouの古城の誇りです。私たちは、祖国古代天文学研究の輝かしい星空の中で、langlangの中で星々の争いの壮麗な光景が現れたと言いました。彼は偉大な天文学者の落胤、任文孫父子と周舒祖孫の三代などを懐胎し、誕生しました。中国の天文、気象学に卓越した貢献をした英才は、langlang中を中国漢唐時代最大の天文研究センターにしました。特に世界の天文史には画期的な「太初暦」の作者がいます。蓓霾(紀元前156年——紀元前87年)、字長公、lang中市人、天文に精通し、暦を得意とし、漢の武帝に招聘され、太史まで勅を待つ。一生の中で天文科学に対して最大の貢献は三つあります。一つは「渾天説」を創立して、宇宙は変化していると考えています。二つは「渾天計」を創製して、当時の世界で最も科学的で、最も精密な天体観測器で、星楼を建てました。落胤の天文研究の成果は中国ひいては世界の天文研究に大きな影響を及ぼしている。イギリスの李ヨゼーさんは「中国科学技術史」で世界天文学の分野で「輝かしい星座」だと言っています。

四川阆中古城导游词600篇十六

华光楼

我们现在看到的就是阆中古城的地标性建筑——华光楼。这座省级文物保护单位矗立于阆中城南、嘉陵江边,说到这阆中的楼阁,华光楼便是首当其冲、不得不提。历代到过阆中的文人墨客,无不以此楼为诗。华光楼在一大片古城居民区中拔地而起,气势恢宏,极富古典建筑的特色,素有“阆苑第一楼”的称号。

大家可以看到,华光楼的楼下是一个五米高的石拱门,这是用于人们来往穿行的过街门。由于华光楼靠近嘉陵江,古代是阆中的航运枢纽中心,加之当时楼的两边都是手工业加工作坊,所以昔日华光楼下是商贾云集、热闹非凡,曾有诗云“春城天不夜,人语市如潮”,以此来描写它的热闹。楼上则是古时候的达官贵人们邀请文人墨客吟诗作对的、欣赏山水的地方。

请各位朋友仔细看一看这座石拱门上雕刻的内容,拱门上南北两面分别刻着“只有打倒国民党才好打帝国主义”和“苏维埃政府是工农兵自己的政府”。大家可不要小看了这两幅标语,这些标语是中国工农红军红四方面军在阆中征战时所留下的,正是因为这些标语,在古老时期华光楼才免遭红卫兵的破坏,我们现在也才有机会看到这座保存完好的华光楼。

滕王阁

我们现在所参观的就是位于阆中古城北、嘉陵江玉台山上的滕王阁,大家可能通过王勃的《滕王阁序》早已对滕王阁这三个字如雷贯耳,但是此滕王阁非彼滕王阁,王勃所描绘的滕王阁位于今天的江西南昌。不过这两座滕王阁还是有共同之处的,那就是他们都是因为一人而建,此人就是唐高祖李渊的第22个儿子,也就是唐腾王李元婴。据说,当时李元婴被贬阆中,为了延续在宫中的奢靡生活,就用聚敛的钱财修建了这座气势宏大、富丽堂皇宫殿式建筑群,当时称之为隆苑,后来因为避讳,改为阆苑。距今已有1300多年的历史了。

现在大家眼前所看到的这尊石塔,就是国家重点保护文物——唐代舍利石塔,经人研究它就是七级浮屠,这是佛教中等级最高的佛塔。它始建于公元4世纪的唐代,高约8.25米。关于这座宝塔的来历还有一个小故事,腾王李元婴从小在皇宫里娇生惯养,贪图享乐,被贬阆中之后依然是不加收敛,骄奢淫逸,他为了来世依然能够过上这种骄奢的生活,就想通过修建浮屠这种方式,来祈求他来世也可以享尽人间荣华富贵,于是就命人在院中修建了三尊佛塔,其余两尊因为历史变迁,早已淹没在历史的长河中,如今只剩下大家眼前这尊了。关于这座佛塔有一个神奇的视觉效果,那就是你围着这个佛塔转,无论在哪个方向看佛塔,佛塔都是倾斜的,所以这座塔又被人们称之为“斜塔”,也有人嘲笑说,李元婴为官不正,就连他修的佛塔也都是斜的。

四川阆中古城导游词600篇十七

墓亭下窝庐形约有拱穴内,端坐着张飞的武身像。请看,这像真是“豹头环眼,燕颌虎须的猛张飞了吧!像前摆的盘龙石斗窝叫“长明灯”。据说,张飞驻守阆中时,曹魏大将张梆带领5万大军进攻巴西首府阆中,当时张飞守卒不过万人,在宕渠与张合相拒,前后50日,张飞依靠当地人民的支持,从梓潼山小路直取张合大本营——瓦口隘,大败张合,取得保境安民的胜利,阆中人感戴他在他死后,特意选取最好的石头精工雕成这座“长明灯”。千百年来,每到清明节,人们都要为张飞扫墓,给长明灯献油。

张飞墓高约6米,方圆100多平方米,全用黄土垒成,宛如一个椭圆形的小山峦,岁月沧桑,墓穴无恙。墓上古木森森,碧草茵茵,似乎印证出千百年来无数后人对这位勇猛刚强、嫉恶如仇的“张三爷”的敬爱。阆苑仙境——锦屏山

来此就是阆中市有“嘉陵第一江山”之你的锦屏山风景区。请看这锦屏山山势起伏,峰峦相连,山上林木葱郁,鸟语花香,山下水流湍急的嘉陵江象一条碧玉带从山脚蜿蜒而过,山水相融,组成一幅秀丽清雅的天然图画,吸引了历代多少的文人名士来此留连。比如大家熟知的唐代诗人杜甫、李商隐,大画家吴道子,宋代文豪苏东坡、诗人黄庭坚、陆游等,都曾为锦屏山风光所倾倒。杜甫的诗中称为“阆中城南天下稀”。近几年景区进行了一番修葺整治,更添新的风采,特别是自然美景与历史文化的交相辉映,充分展现了阆中游览的古雅品位,使我们感悟到它既是观光之旅,又是知识之旅。现在就让我们以景区内的古迹名胜作为标志,一路游览下去。

这里是阆中杜少陵祠,纪念杜甫的祠庙。杜甫曾在唐代宗广德元年(公元763年)八月和广德二年两次来到阆中,并举家在此居住半年之久,其间写下了60多首诗歌。他在《阆山歌》和《阆水歌》中,赞美阆中的山“己觉气与嵩华敌”,阆中的水“石黛碧玉相因依”。杜少陵祠依山而筑,保持了唐宋时代肃穆典雅的风格,祠堂前厅悬挂的70多幅诗词木刻和字画,寄托了对诗人的怀念;两旁厢房陈列有古文物、古木漆家具等,增添了祠堂的古意。正殿是汉白玉的杜甫立像,正在挥笔凝神,推敲词句,构思新章。这尊雕塑,己非古物,但我们从南宋爱国诗人陆游在乾道八年两次到阆中瞻仰少陵祠后,在《游锦屏谒少陵祠堂》一诗中写他当时看到的杜甫塑像的情景,可得到一些印象。诗说:“虚堂奉祀子杜子,眉宇高寒照江水,古来磨灭知几人,此老至今原不死。”眉宇高寒的杜甫,孤独地但却长久地留在祠中,受后人凭吊,也就是留芳百世了。

一路观景而行,己到宋烈文侯祠,也就是张宪祠了。说张宪,可能有的人感到陌生,但只要说是岳飞身边的爱将,知道的就多了。张宪是锦屏山这一带的人,南宋时岳飞领兵抗金,张宪投入岳飞帐下为将。他骁善战,赤胆忠心,功授副都统制,深受岳飞的器重,并招之为婿。在岳家军直捣朱仙镇,即将“痛饮黄龙”时,以宋高宗为首的投降派害怕岳飞迎回徽、钦二帝后,自己丧失皇位,连发12道金牌召岳飞班师,奸臣秦桧以“莫须有”的罪名谋害岳飞。绍兴十一年十二月二十九日(公元1142年1月27日),年仅27岁的张宪同岳飞父子一同被害于杭州风波亭,葬于离岳墓不远的东山港口。20年后,金兵再次南侵,刚刚登基的孝宗皇帝为了激励臣民抗金,对岳家军来了个“平反加封”,张宪被追封为龙神卫士厢都指挥使,阆州观察使,又赠宁远承宣使。明代,再追封为烈文侯,在家乡阆州建祠纪念。

张宪祠占地约30亩,座西向东,三面环山,地形象一把圈椅,前人把祠堂选在锦屏山腰的这个地段,可算是一块“风水宝地”。再加上那苍劲傲岸的青松翠柏,刚柔相济的香樟绿杨,把祠庙围得严严实实,更显得庄重静穆。张宪的塑像放在院中而不在殿内,也是一种“匠心独具”的表现:张宪功高蒙冤,壮志未酬,人虽死,心不甘,所以塑像不稳坐殿中而是立在陛下。你看他身披金甲,左手按剑,右手抚腰,威严挺立。再看他的神情,园睁怒目,仿佛在问:抗金保国,何罪之有?紧蹙双眉,似乎对未能劝住岳飞班师回朝而痛心疾首。看到这里,联想西子湖畔那流芳千古的岳王坟和遗臭万年的秦桧跪像,我们都会感受到“历史是最公正的”“民心是最公道的”。

四川阆中古城导游词600篇十八

各位游客朋友大家好:

非常欢迎各位来到中国历史文化名城---古城阆中旅游,阆中位于嘉陵江中游,四川东北部,是整个四川迄今为止保留最为完整,规模最大的古城,和云南丽江、山西平遥、安徽歙县并称为咱们中国的四大古城。在参观游览的途中请大家注意安全,爱护环境。大家请跟上我的脚步,我们将参观游览古城区的华光楼、张飞庙和贡院。

阆中古城历史悠久。在战国时就被设为巴国别都,至今已有2300多年的历史了。自秦国建县以来,历朝历代都在阆中设置郡州府道。阆中最为显著的特色在于它是一座神秘的风水古城。它建在大巴山脉、剑门山脉与嘉陵江水系交汇处,山围四面,水绕三方,顺应了风水理论中龙、砂、水、穴的意象。大家可以看到,在阆中古城里,山、水、城是一体的。优美的自然环境,绝佳的山水格局,与浓郁的风水文化理念结合得近乎完美。难怪许多著名建筑专家盛赞它是当今中国保存最为完好的“风水古城”,同时也有了“阆苑仙境”的美誉。大家知道吗,阆中别名阆苑,本是指传说中的西王母居住之地,唐代滕王李元婴镇守阆中时,按宫苑格局大兴土木,修建离宫别院,因此得名。好了,说到这里,我们第一个要参观的景点——华光楼,已经近在眼前了。说到这阆中的楼阁,华光楼便是首当其冲、不得不提的。历代到过阆中的文人墨客,无不以此楼为诗。其中宋代诗人李献卿留下的一句“三面江光抱城郭,四围山势锁烟霞”,更是传诵至今。华光楼通高三十六米,在一大片古城居民区中拔地而起,气势恢宏,极富古典建筑的特色,素有“阆苑第一楼”的称号。

大家可以看到,华光楼的楼下是一个五米高的石拱门,这是用于人们来往穿行的过街门。由于华光楼靠近嘉陵江,古代是阆中的航运枢纽中心,加之当时楼的两边都是手工业加工作坊,所以昔日华光楼下是商贾云集、热闹非凡,曾有诗云“春城天不夜,人语市如潮”,以此来描写它的热闹。楼上三层为全木结构,每层都装有雕刻精美的花窗,主要是古时候的达官贵人们邀请文人墨客吟诗作对、欣赏山水的地方。

说到华光楼的历史,可以追溯到唐朝初年,相传华光楼是由唐代滕王李元婴,也就是唐太祖李渊的儿子,被贬阆中时所修建的,当时称之为南楼,古南楼在清朝道光十九年毁于一场大火,大家现在所看到的这座楼是清朝同治六年所重建的,距今已有一百四十多年的历史了。

现在大家是不是很想马上就登楼观景了呢?不过,咱们在登楼之前,还要请各位朋友仔细看一看这座石拱门上的玄妙。石拱门的正中,写有“古镇江楼”四个大字的牌匾,是不是依然清晰可见呢。这个牌匾的历史也非常悠久,是清朝阆中的知事彭凤藻所题。拱门的南北两面,是红四方面军在阆中征战时所留下的石刻标语。大家可不要小看了这两幅标语,正是因为它们,华光楼才免遭红卫兵的破坏。咱们现在也才有机会看到这座保存完好的华光楼。

好了,各位朋友,在阆中有句俗话,不登华光楼,枉到阆中游,接下来咱们就一起登上华光楼去一看阆中古城的美景吧!

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